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醍醐天皇の生涯

醍醐天皇の生涯、変興味があります。

元慶9年1月18日(885年)源定省の長男・源維城として生まれる。仁和3年(887年)、父が皇籍に復帰して天皇に即位した事に伴い、皇族に列する事になった。寛平元年(889年)親王宣下、同5年4月2日立太子。同9年7月3日元服し、同日践祚。父帝の訓示を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かず形式上の親政を行っていたため、後世「延喜の治」と崇められたが、昌泰4年(901年)、時平の讒言を聞き菅原道真を大宰権帥に貶めた昌泰の変は、聖代の瑕と評されることであった。だが近年では、この事件を天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動であったと考えられている。時平も初めての荘園整理令を発布したりして政治の刷新に意欲的であり、国史『日本三代実録』を完成させ、また律令政治の基本法である延喜格式の撰修に取り掛かったりしたが、完成に至らぬまま早世し、弟藤原忠平らがその志を継いで延長5年(927年)に完成した。

天皇はまた和歌の振興に留意し、延喜5年(905年)、『古今和歌集』撰進を紀貫之らに命じた。自身も和歌に堪能で、勅撰集に43首入る。家集『延喜御集』もある。20巻にわたる33年間の宸記『延喜御記』は諸書に引かれている逸文のほかは現存せず、村上天皇の御記と併せて『延喜天暦御記抄』とよばれて伝わる。

天皇ははじめ中宮藤原穏子との間にあげた長子保明親王を東宮の座に据えたが、早世したためその子慶頼王を立坊させるも、やはり夭折した。一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂され、延喜23年(923年)になって、天皇は道真を左遷した詔を破棄し、右大臣に復し贈位を行うなどその慰霊に努めた。

延長8年9月22日(930年10月16日)、病篤きによって皇太子寛明親王に譲位し、その7日後、延長8年9月29日(930年10月23日)に崩御。醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下において土葬された。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年10月23日 21:59に投稿されたエントリーのページです。

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